武蔵野の面影を残すひっそりとたたずむ尼寺 臨済宗 三光院

三光院について

三光院は、臨済宗國泰寺大本山國泰寺派に属する。本尊は、釈迦牟尼仏。
小泉住職のもと、定期的に坐禅会や写経会を行っています。
また、仏式の葬儀、結婚式も承っております。お気軽にお問い合わせください。
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越中高岡の名刹國泰寺は、開山始祖である慈雲妙意(慧日聖光国師)が修業時代孤峰覚明禅師(三光国師)の縁で師匠法燈国師に参禅し教えを乞い、悟りを開かれ名声を博すようになり、後醍醐天皇(南朝)、光明天皇(北朝)の両天皇より帰依を受け、嘉暦三年(1328)に、後醍醐天皇より「國泰寺」の寺号の勅額の下賜を得ました。
また、南禅寺(京五山の上位)と同格の勅願寺とされ、北陸鎮護第一禅刹特進出世の道場となり、東松寺より國泰寺と改号し、北陸地方における法燈派の拠点となりました。
その後、戦国時代(前田利家)・江戸時代(徳川綱吉)による伽藍の改修の変遷を経て明治に入り、三光院にもご縁のある山岡鉄舟が明治天皇巡幸のお供の折、五十四世住持「越叟禅師」を訪ね肝胆相照らし天皇殿の改築に尽力した話や日本の代表的な思想家である西田幾太郎や鈴木大拙が若き日に五十五世住持「雪門禅師」に参禅したことでも知られている。

三光院の沿革

昭和9年、東京・文京区の素封家・西野奈良栄刀自(にしのならえい とじ)が、私財を投じ、鎌倉末期の後醍醐天皇の信奉厚かった国策三光国師(さんこうこくし)を開山特賜として創建。
初代住職

米田祖栄禅尼
(よねだそえいぜんに)

明治40年(1907)~昭和59年(1984)
 神戸生まれ。5歳のとき京都・南禅寺の南針軒老師の引き立てで、東山の霊鑑寺(鹿ヶ谷御所)に入る。8歳のとき、京都・嵯峨野の尼門跡寺院「曇華院」に移り、ご門跡の飛鳥井慈孝尼公のもとで修行を重ねる。
昭和12年(1937)、曇華院の飛鳥井ご門跡と親交のあった奥浜名湖の名刹・臨済宗方広寺派本山の管長・間宮英宗老師に懇請され、東京・小金井の三光院の初代住職となる。
二代目住職

星野香栄禅尼
(ほしのこうえいぜんに)

昭和6年(1931)~令和2年(2020年)
 東京生まれ。勉学のかたわら、三光院通いを続けて、米田祖栄禅尼に師事して、仏門を目指して大正大学に学ぶ。卒業後、祖栄禅尼が開園した幼稚園の園長に抜擢。また、修行の一端として祖栄禅尼から習得した京都・竹之御所流精進料理の一般公開とともに、精進料理本を何冊も執筆し、英語版も手掛け、ICUと国連大学での講義や米国での講演など《精進料理の伝道師》として国際的な普及に貢献。
 この間、武蔵・平林寺で禅堂で修行、京都・花園大学で西村恵信のもと禅を探求。一方、曇華院のルーツである「通玄寺史」の現代訳に挑み、29門主・飛鳥井慈孝尼公の厚い信頼を得て、同院で得度式を行った。
三代目住職

小泉倖祥禅尼
(こいずみこうしょうぜんに)

小泉倖祥禅尼
昭和18年8月28日~
埼玉県浦和市生まれ。
大妻女子大学 短期学部食物科 卒業。
45歳埼玉県与野市議会議員(現さいたま市)
花園大学社会人クラス入学の後に西村恵信先生の元で、禅を学ぶ。
 与野市議会議員3期務めた後、母介護のため議員退職。看病・看取りの後、出家し、京都花園大学仏教学科社会人クラスに入学。学びながら臨済宗建仁寺派高台寺勤務。岐阜祥雲山天衣寺・尼僧堂にて修行。二代目住職星野香栄禅尼からの要請を受け3代目三光院住職となることを承諾。 大本山國泰寺派管長澤大道様より令和3年12月8日三光院住職を拝命。
座禅会や写経、箸供養等、活動。
小泉倖祥禅尼
坐禅会のご案内
武蔵野の面影を残すひっそりとたたずむ尼寺で
心静かに坐禅、禅寺食事法(お粥)を体験しませんか
と き 毎週 土曜日 10:00~12:00
ところ 三光院本堂
「志納金」
坐禅 10:00~11:00 500円
お粥 11:00~12:00 1,000円

座り方や呼吸の仕方から説明しますので、初めての方もお気軽にご参加ください。椅子座戦もあります。

禅宗の修行僧が使用する個人の食器のことを持鉢(じはつ)といいます。修行僧になった気分で、お粥を食べる作法を体験します。
坐禅会

三光院へのアクセス

〒184-0004 
東京都小金井市本町3丁目1−36
お車で
中央自動車道「調布IC」より約8km
駐車場あり。
電車で
JR中央線「武蔵小金井駅」下車 徒歩約15分 もしくは
コミュニティバス(CoCoバス)に乗車し「三光院前」下車 徒歩1分
バスで
西武バス「本町2丁目」下車 徒歩5分